創業期
〜自然の利を活かして誕生した入浜式塩田〜
野﨑 武左衛門
1789年〜1864年
文政12年(1829年)創業者野﨑武左衛門が倉敷市児島において塩田事業を始めたのが当社の発祥です。
美しい瀬戸内海と晴れの国と称される温暖な気候、そして潮の干満差の大きい自然の利を活かして次々と入浜式塩田を築造しました。
天保2年(1831年)
味野浜・赤﨑浜あわせてを元野﨑浜を完成させました。現在のJR児島駅周辺です。
天保12年(1841年)
山田沖に東野﨑浜塩田を完成させました。現在の製塩工場の所在地です。
明治27年(1894年)
野﨑家の所有する耕作地は488町歩、塩田は181町4反余に及んでいました。
明治32年(1899年)
台湾の塩田開発に着手し、明治36年に竣工しました。
明治38年(1905年)
財政収入の確保と国内塩業の保護育成を目的として、専売制度が創設(塩専売法公布)されました。同年2月25日に塩製造者登録をしました。また同年6月に全国塩田同盟会が設立され、野﨑家に本部が設置されました。
専売制度施行
1905年(明治38)
欧米など諸外国の多くは岩塩などの天然資源に恵まれていますが、我が国ではそのような天然資源に乏しく、また塩づくりに適した気象条件にも恵まれていません。そのために我が国では人が生きていく上で欠かせない大切な<塩>を作るために古来より大変な苦労が重ねられてきました。
江戸の末期から塩は流通商品として各藩の重要な財源となり、岡山藩でも1845年(弘化2)から「御国産塩御仕法書」を定め、塩は藩の専売品となりました。(岡山藩「御国産塩御仕法書」)
しかし岡山藩の塩専売制に対して児島郡の塩業者から反対運動が起きました。
1846年(弘化3)に弊社創業者野﨑武左衛門は塩専売仕法の草稿を作成しました。岡山藩庁は塩専売仕法を修正して、塩問屋制を復活させました。
しかし塩の生産はお天気次第で、大きく自然条件に依存していましたので、毎年のように需給のバランスが崩れ、製塩業者は「余り塩」に泣かされていました。各藩は塩の流通価格に関係なく売上金に対して一定の率で徴税しましたので、リスクは常に塩業者と問屋に負わされていました。
明治維新後、それまで各藩で行われていた専売制が廃止され、各地の製塩業に混乱が起きました。日清戦争後の物価高騰や安価な台湾塩の登場により国内製塩を存続すべきか、台湾塩などの外国塩に依るべきかの議論が起こります。
しかし1904年(明治37)に日露戦争が勃発し、臨時軍事費調達の必要に迫られ、12月に塩専売法が国会で可決され、翌1905年(明治38)6月から施行されました。そして大蔵省主税局に専売事業及び専売技術の2課が設置されました。その当時、岡山県下には約485haの塩田がありました。
同年6月1日、全国塩田同盟会が設立され、野﨑家に本部が設置されました。
明治43年(1910年)
第1次塩業整理が行われ、製塩業は瀬戸内海に集中し、全国の86.6%となりました。
第1次塩業整理
1910~1911年(明治43~44)
専売制度施行当初は塩の価格も不安定で、また諸物価に及ぼす影響も大きいため、政府は塩の価格を規制し、指定売捌人制(指定問屋制)の採用、官費による塩の輸送など流通面でも種々の改善を行い、さらに非能率塩田の廃業整理を行って塩の価格の安定に努めることになりました。
この第1次塩業整備で瀬戸内海の沿岸以外の小規模で生産性の低い塩田が廃止されました。県下では1911年(明治44)9月30日に邑久郡裳掛村、児島郡下津井町、小田郡金浦町の3カ所で計8.5haの塩田が廃止されました。
全国で塩田面積1,900町歩、製造塩田約6,500カ所、従業者15,500人、生産量66,000トンの塩田が整理されました。
これにより製塩業は瀬戸内海に集中し、日本全体の86.6%の塩を生産することになりました。
大正8年(1919年)
政府は経済情勢の変化に伴い、従来の収益専売から、塩の円滑な需給、価格の安定および国内塩業の育成を目的とした公益専売に転換しました。
転換期
〜自然に頼っていた製塩法から、近代化の扉を開いた流下式塩田〜
昭和4年(1929年)
第2次塩業整理が行われ、製塩地は瀬戸内海にさらに集中することとなり、全国の93.6%となりました。
第2次塩業整理
1929~1930年(昭和4~5)
政府の塩業に対する諸施策がようやく実を結び、国内生産量が増大する一方、台湾などの外地の製塩も飛躍的に伸び、供給過剰となりました。この事態を解消するために1929年(昭和4)第2次塩業整備「製塩地整理に関する法律」が実施されました。この塩業整備により「生産力低く生産費高きもの」及び「将来永続の見込み乏しきもの」が整理の対象となり、県下では邑久郡牛窓町、児島郡鉾立村、小田郡神島内村などの町村から塩田が消えることになりました。このほか児島郡味野村、赤崎村、琴浦町、宇野町、山田村、胸上村などでは部分的に成績不良塩田が廃止されました。
廃止塩田の総面積は80haにのぼり、製塩地は瀬戸内海沿岸への集中化がさらに進み、93.6%となりました。
昭和9年(1934年)
野﨑家の個人経営から資本金320万円の株式会社野﨑事務所に変更しました。
昭和13年(1938年)
児島郡胸上村に4重効用真空式製塩工場を新設しました。
昭和16年(1941年)
化成品事業を開始しました。
昭和19年(1944年)
鉾立村番田に流下式試験塩田を設置しました。
昭和21年(1946年)
内海塩業株式会社に社名変更しました。
昭和24年(1949年)
GHQの示唆により塩専売法が公布され、大蔵省専売局が廃止され日本専売公社が誕生しました。
昭和26年(1951年)
かねて番田塩田で研究を重ねていた流下式塩田の成績が良好であったため、山田・胸上の塩田を流下式に転換する工事に着手しました。
竹の枝を利用して天日と風力で海水を濃縮させる枝条架流下式への転換により、入浜式に比較して生産量は3倍に、労働力は10分の1に
軽減されました。この製法はこれまでの人力と自然だけに頼っていた製塩法と近代的な工業的製塩法の重要なつなぎ役を果たしました。
昭和33年(1958年)
真空式製塩工場を更新しました。(50,000トン)
昭和34年(1959年)
流下式転換による生産性向上により塩が過剰生産となったため、第3次塩業整理が行われました
第3次塩業整理
1959~1960年(昭和34~35)
連合国最高司令官総司令部(GHQ)の示唆により、1949年(昭和24)に塩専売法が成立公布されました。また、大蔵省専売局が廃止され、新たに日本専売公社が発足しました。昭和25年には戦中戦後の苦い経験から食料用塩の国内自給を目標に、製塩設備の改善、合理化を図ることを目的として「国内塩業対策」が閣議決定されました。
弊社番田塩田において研究中の流下式塩田の成績が良好であったため、1951年(昭和26)から流下式への転換工事に着手しました。日本専売公社は弊社製塩法の優秀性を認め、全国に入浜式から流下式製塩法への転換を命じました。それにより省力化が進み、国内生産量が飛躍的に増加したため生産過剰となり、昭和34年に第3次塩業整備が行われました。
その結果、県内では内海塩業・錦海塩業・味野塩業・児島塩業の4企業だけが残ることになりました。牛窓町の鹿忍、玉野市、倉敷市水島、玉島、浅口郡寄島などの塩田がこの時期に廃止されました。
改革期
〜製塩法に画期的な革新をはかった膜濃縮製塩法〜
昭和36年(1961年)
我が国においてイオン膜濃縮製塩法による製塩に成功しました。
昭和37年(1962年)
水酸化マグネシウムの製造を開始しました。
昭和44年(1969年)
イオン膜濃縮設備の電通を開始し、元野﨑浜全部と東野﨑浜の一部の流下式塩田を廃止しました。
昭和46年(1971年)
「塩業の整理及び近代化の促進に関する臨時措置法」が公布され、昭和47年(1972年)に、国(日本専売公社)は当時全国に26あった
塩田を全部廃止し、塩田にかわってイオン膜濃縮法による海水濃縮装置の製塩会社を全国で7ヶ所に集約する第4次塩業整備を
行いました。
これにより当社は1工場年産15万トン規模の全国7製塩企業のうちの1社に指定されました。
新鋭大型製塩工場が完成し、172,000トンの製塩設備の運転を開始しました。
同年、2000トン級船舶が着岸できる港湾施設を竣工しました。
平成5年(1993年)せんごう設備を全面更新し、最大生産能力は210,000トンとなりました。
第4次塩業整備
1971年(昭和46)
1961年(昭和36)、我が国においてイオン交換膜と電気エネルギーを利用した日本独自の製塩法による製塩が成功しました。この製塩法は天候の影響を受けず、また海水汚染物質を取り除き、高品質で安価な塩を安定的に生産する画期的な製塩法です。
弊社では、1969年(昭和44)にイオン交換膜法による製塩の許可を得て、9月1日から設備の電通を開始しました。
1970年度(昭和45)中に全国で生産された塩量に対してイオン交換膜法で生産された塩は全体の28%に達していました。
イオン交換膜法による製塩法が実用段階に入った1971年(昭和46)に第4回目の塩業整理が行われ、全国の塩田はすべて廃止され、全県下で260haの塩田が廃止されました。(「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法」)
当時全国で26社あった製塩企業のうち11社がイオン交換膜法工場の許可申請を提出しましたが、塩業近代化審議会の答申に基づき政府は次の7社を指定しました。
●新日本化学㈱ (のちに、新日本ソルト株式会社) 福島県
●赤穂海水化学㈱(のちに、赤穂海水株式会社) 兵庫県
●錦海塩業㈱ 岡山県
●内海塩業㈱ (のちに、ナイカイ塩業株式会社) 岡山県
●鳴門塩業㈱ 徳島県
●讃岐塩業㈱ 香川県
●崎戸製塩㈱ (のちに、ダイヤソルト株式会社) 長崎県
平成9年(1997年)
明治38年から92年間続いた塩専売制度が廃止され、新たに塩事業法がスタートしました。生活用塩は従来通り国が
管理しますが、その他の塩は5年間の経過措置の後、製造・輸入・販売が自由化されることになりました。
塩専売制度廃止
1997年(平成9)
国家の財政収入を目的とした「財政専売」から塩需給と価格の安定を目的とした「公益専売」と形を変えながら90余年続いた塩専売制度は、規制緩和の波に押されて1997年(平成9)4月1日「塩事業法」(1996年(平成8)5月15日公布)の施行により、その長い歴史に幕を下ろしました。しかし、塩は公益性が極めて高く、かつ人間が生きていく上で欠かすことの出来ない重要物質である点に変わりがあるわけではありません。
塩の完全自由化
2005年(平成17)
1997年に専売制度は廃止されましたが、激変緩和措置として5年間の経過措置期間、3年間の輸入精製塩に対する関税措置期間を経て、2005年(平成17年)4月に完全自由化の時代を迎えました。1905年(明治38)に我が国に塩の専売制度が導入されて以来、100年ぶりの自由化となります。
弊社は創業以来180余年の歴史と伝統とともに、公益の使命感をもって常に品質の向上、コストの低減、全国への安定供給に努めています。
現在、国内では下記の4社6工場で、日本の海水から生産されている塩のほとんどを生産しています。
●㈱日本海水 小名浜工場 福島県
●㈱日本海水 赤穂工場 兵庫県
●ナイカイ塩業㈱ 岡山県
●鳴門塩業㈱ 徳島県
●㈱日本海水 讃岐工場 香川県
●ダイヤソルト㈱ 長崎県
平成10年(1998年)
真空蒸発缶四重効用システムに変更しました。また、タービン・発電機設備を更新しました。
平成11年(1999年)
品質マネジメントシステムISO90002の認証を取得しました。
平成15年(2003年)
品質マネジメントシステムISO9001:2000年版に移行登録しました。
平成18年(2006年)
2000トン港湾施設を増設しました。環境マネジメントシステムISO14001の認証を取得しました。
平成21年(2009年)
酸化マグネシウム第2工場が完成しました。
平成30年(2018年)
品質マネジメントシステムISO9001:2015年版に移行登録しました。